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古くは文治元年(1185年)に緒方惟義が築城したといわれる山城を、建武元年(1334年)大友氏の一族である
志賀貞朝が改修し、岡城と名付けたとされる。
天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る
快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、
親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている。
豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、
大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、
入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。
8代中川久貞の明和年間(1764年 - 1771年)には城内の大半を焼く大火が起きている。
明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、
現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。
「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たと
いわれているため、城址には廉太郎の銅像が、遠方の山並みを眺めるように建てられている。
大野川を挟んで岡城の下を走る国道502号の上り車線にはメロディ舗装がなされた区間があり、
車が通過すると荒城の月のメロディが聞こえるようになっており、岡城からでもその音を聞くことが出来る。
周辺は整備され毎年「岡城桜まつり」が開催されている。
城址の保存状態に対して評価が高く、多くの見学者が訪れる観光地となっている。
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