内乱の絶えない戦国時代、栂牟城に拠って当地を治めていた第十代当主、
佐伯惟治は主家の大友氏と対立する羽目となり、ついに落城の憂き目に合うことになりました。
難を逃れての道行き途中、黒沢村に立ち寄り、一路日向まで辿りつきましたが、
そこで新名党に襲われて無念の最後を遂げました。
あまりにも壮絶な討ち死にであったため、惟治公は怨霊神と化し、いつぞや落城の際に
飲み水を捧げた黒沢村の乙女、若狭に乗り移りました。
若狭はその神託により、庵寺を建立し定光寺と号しました。
その後、天分7年(1538年)に父の多田弥四郎により富尾代権現として創建されたのが現在の
富尾神社です。
この神社の由来記によると、打ち続く村中の不作を憂い、弘治3年(1557年)霜月25日を冬祭り、
7月25日を夏祭りと定め、「お浜出」踊勘杖」狂言を永年奉納するよう御立願した。
これが御幸祭典の起こりであります。以来、神踊り、杖踊りは四百数十年来の伝統を持ち、
今も地域の人々の厚い信奉により保存継承されています。