2006年1月2日 正月なので漁船には日の丸が掲げられています
水かけゆうれい |
今からおよそ500年ほど昔というと、ちょうど戦国時代のころである。豊後水道には、速見組とか村上水軍とかいわれる海賊がいて、争いや戦がたえなかった。このため、海にしずんだ人は、何千何万といわれる。 いつのころか、この海で死んだ人たちのれいが、豊後水道を通る船をしずめるといううわさがたった。そのうわさのとおり、漁に出たまま帰ってこない船があいついだ。 うしみつどき (午前2時ごろ)のころであった。たまたま、豊後水道を通りかかった船があった。すると、海のどこからともなくあやしい光が数限りなく波間にうかんできて、それがいつのまにか何千という白衣を着た人のすがたとなって、空にまい上がった。そして、地獄の底から聞こえてくるような声で、「ひしゃくをくれえ。ひしゃくをくれえ。」と、いく百いく千のさけび声がおこった。その声は、こだまのように海いっぱいに広がっていった。船頭たちはおそろしさのあまり、あかとりびしゃくをほうり出し、船の底にかくれてふるえおののいた。すると、今までのそうぞうしい音がはたとやんで、一本のひしゃくがみるみるうちに何千本にもなった。白衣の人が手に手にひしゃくをもって、海の水を船にくみこむのである。やがて、水がいっぱいになって船がしずんでしまうと、いつのまにか何千という白衣の人は、音もなくきえてしまった。 このようなことがたび重なるうちに、夜、豊後水道や佐伯湾を通る船は、まったくなくなってしまった。こまったのは、夜、漁をしてくらしをたてているこのあたりの漁師たちであった。 ある日、浪花(今の大阪)から荷物をつんで、佐伯に帰る船があった。向かい風のため思うように進まず、府内沖(大分市沖)にさしかかったころには、すっかり暗くなってしまった。 さあ、もう乗り合わせた客たちは、気が気ではなかった。 「ああ、こまったなあ。」 「夜中になると、あの白衣のゆうれいが出てくるかもしれん。」 「こよいは、府内にとまることにしよう。」 と、口々に船頭に言った。しかし、船頭が、「なあに、おれたちがしゃんとしとれば、ゆうれいたちにまよわされるようなことはない。元気を出せ。夜中までには佐伯に帰りつくぞ。」と強く言うので、このまま進むことになった。 船は、うるしを流したようにまっくらな海をギィーギィーと波をかきわけて、ゆっくりと進んでいった。夜がふけてくるにつれ、何か身の毛のよだつようなおそろしさがせまってくる気配がしてきた。 「さてはあらわれたか。」 船頭たちが目をこらして暗い海をみあやしい光がぶすぶすと海の上にもえていた。 船頭たちは、こわさのあまりかじぽうをつき放して、船の底にかけこんだ。そして、ドンダ(綿入れの着物)を頭からかぶると、両手で耳をふさいだ。体が、がたがたふるえてとまらない。船の上やまわりでは、白衣を着た大ぜいのゆうれいたちが、「ひしゃくをくれえ。ひしゃくをくれえ。」と、口々にさけんでいる。このままでは、船ともどもにしずんでしまう。船頭は、とっさにひしゃくの底をたたきこわすと、船の上にはうりあげた。 ぶきみでそうぞうしい音がぴたりとやんだ。何千もの白衣をきたゆうれいたちが、船に海水をくみ入れはじめたようである。しかし、くみ入れてもくみ入れても、船にはいっこうに水がたまらない。 それから、どのくらいたったであろうか。船頭たちが、おそるおそる船の上に首を出してみると、東の空は白んで、何千もの白衣のゆうれいはかき掛すように消えていたという。 このことがあってから、夜、豊後水道や佐伯湾を通る船は、底なしびしゃくをつむようになったという。 大分の伝説 文:久保彰三 |